二月の鎌倉、まだ風は冷たい。江ノ電の踏切が下りる音とともに、清水小綾の事務所のドアが開いた。入ってきたのは、東京から鎌倉に移住したばかりのイラストレーター・優子だった。三十二歳。フリーランス三年目。「先生、初めての確定申告で、何から手をつけていいか、本当に分からなくて……」。彼女の手には、コンビニの袋が二つ。中には、しわくちゃの領収書とレシートが、まるで一年分の混乱そのもののように、無造作に詰め込まれていた。小綾は袋を覗き込み、笑った。叱るためではない。ここから一緒に整理していく、その喜びを思って。 「大丈夫ですよ。私たち、整理屋さんじゃなくて、伴走者ですから」。小綾は優子に温かいほうじ茶を出し、まずは話を聴くことから始めた。優子の仕事は、出版社の挿絵、企業のロゴデザイン、SNS用のキャラクターイラスト――幅広い。クライアントは国内だけでなく、最近ではアメリカやヨーロッパの企業からも依頼が入る。「東京を離れたのは、家賃と、生活のリズムを変えたかったから」。鎌倉に住み始めて半年、潮の匂いと坂道の生活が、彼女の絵にも変化を与えていた。「最近、絵に光が増えたって言われるんです」。 領収書を一枚ずつ広げ、小綾は穏やかに分類していく。仕事用の文房具、画材、書籍――これらは経費。でも、近所のカフェのコーヒー代は、打ち合わせなのか、自分の休憩なのか。「経費とプライベート、ここの線引きが、フリーランスの永遠のテーマです」と小綾は微笑んだ。「全部経費にしようとすると、税務調査で困る。逆に、必要な経費を計上しないと、税金を払いすぎることになる」。優子は、ノートに丁寧に書き留めた。「先生、私、これまで適当だった……ちゃんとしなきゃ」。「適当だったから、いま、ちゃんとしようとしてる。それで十分です」。 二人は、クラウド会計ソフトの使い方を、ゼロから学んでいった。銀行口座とクレジットカードの自動連携、レシートのスマホ撮影、月次の入力習慣。「最初の一ヶ月だけ頑張れば、あとは習慣の力で続きます」と小綾は言った。優子は、自分のペンタブと同じ感覚で、画面のチェックボックスを慣れた手つきで操作し始めた。「これ、思ったより、楽しいかも」。創作と数字――一見、対極にある世界が、彼女の中で、少しずつ繋がっていく。「絵を描くのと同じで、構造が分かれば、こなせるんですね」。小綾は、その気付きが嬉しかった。 経費の整理が一段落すると、次は来年の収入予測だった。「優子さん、このペースだと、来年は年収一千万を超える可能性があります。そうなると、消費税の課税事業者になります」。「課税事業者……?」――優子の目が、丸くなった。小綾は、インボイス制度、簡易課税、本則課税、それぞれの違いを、図解しながら説明した。「制度を知らないと、知らないうちに損をします。逆に、知っていれば、自分のキャリアを設計しやすくなる」。優子は、メモを取りながら、頷いた。「税金って、防御だけじゃなくて、攻めの道具にもなるんですね」。 鎌倉に移住してから、優子の仕事の幅は広がっていた。海外のクライアントとは、英語のメールと、ZOOMでのやり取り。請求書はドルで届く。「外貨建ての処理も、私たちで対応しますから、安心してください」と小綾は言った。「鎌倉に住んでるけど、世界と仕事してる。それって、すごく今の時代らしいですよね」と優子は笑った。「私の仕事も、紙とペンの時代から、クラウドと国境のない時代へ。お互い、変化の中にいますね」。窓の外で、観光客の英語の声が聞こえた。鎌倉という街は、いつも、外との風を受け入れていた。 確定申告書を電子提出した日、二人は事務所の小さなテーブルで、温かいお茶で乾杯した。「無事、提出完了です」――小綾の声に、優子は深く息を吐いた。「先生のおかげで、初めての確定申告が、思ってたより、ずっと豊かな経験になりました」。緑茶の湯気が、二人の間で揺れた。「私、来年は、自分でやってみたいです」と優子は言った。「もちろん、難しいところは先生に相談しながら、ですけど。でも、自分の事業を、自分で説明できるようになりたい」。それは、税理士にとって、最高の言葉のひとつだった。 翌年の二月、優子は、事務所のドアを再び叩いた。手にしていたのは、整理された一冊のファイル。クラウドの管理画面の印刷物と、月別の振り返り、来年に向けた目標。「先生、確定申告、自分でやりました。確認だけ、お願いできますか」。小綾は、書類を一枚ずつ確認した。完璧だった。「優子さん、もう、一人前のフリーランスですよ」。優子は照れ笑いを浮かべた。「先生に教わったことが、私の仕事の土台になりました。鎌倉に来て、絵だけじゃなく、生き方ごと、変わった気がする」。窓の外、江ノ電が、いつもどおりの音を立てて、鎌倉の海へ向かっていく。