朝七時、まだ街が寝静まる時間に、社会保険労務士・須田朋美の一日は始まる。彼女が代表を務める『オール社会保険労務士事務所』は、社員の働き方と、会社の運営、その両方を支える小さな砦だ。机の上には、未読の電話メモが三枚――『従業員から残業代について相談』『就業規則変更の問い合わせ』『労災の相談』。どれも、誰かの生活がかかっている内容だ。彼女は深く息を吸い、コーヒーを淹れる。湯気が立ちのぼる音だけが、静かなオフィスに響いた。「今日も、ちゃんと話を聴こう」――心の中で、自分自身に言い聞かせるように。社労士の仕事は、書類を書くだけではない。一人ひとりの声を、聴くところから始まるのだ。 最初の電話は、五十人規模の製造業の社長からだった。「ベテラン社員が突然辞めると言い出した、どうしたらいい?」声には焦りが滲んでいる。朋美は静かに頷きながら、まず社員の話を直接聴く時間をもらえないか提案する。労務トラブルは、たいていの場合、給与や制度の問題ではなく、コミュニケーションの行き違いから生まれる。それは、十年以上この仕事を続けてきた彼女の経験から導き出された結論だった。「制度は、人を縛るためじゃない。守るためにあるんです」。その信念が、彼女の言葉の一つひとつに、確かな重みを与えていた。社長は受話器の向こうで、ゆっくりと深く息を吐いた。 午後、彼女は中小企業の事務所を訪ねた。机を挟んで向かい合った社員は、長く沈黙していた。やがて、ぽつり、ぽつりと話し始める。残業時間が記録されないこと、有給休暇を取りにくい雰囲気、そして、家族との時間が削られていく不安。朋美はメモを取らず、ただ静かに頷いていた。話し終えた社員は、最後に小さな声で「聴いてくれてありがとう」と言った。その後、社長と社員、両方の声を踏まえ、就業規則の改定と勤怠管理システムの導入を提案する。半年後、その会社の離職率は半分以下になった。「制度は、現場で使われて、はじめて誰かを救うんです」――それが、彼女が何度もくり返してきた言葉だった。 朋美が社労士を志したきっかけは、学生時代に両親が経営していた小さな会社の倒産だった。労務管理が雑だったことで、優秀な社員が次々と離れていき、最後には資金繰りが行き詰まった。「人を守ることは、会社を守ること」。その教訓を、彼女は二十代の頃から胸に刻んでいる。資格取得の勉強は深夜に及び、何度も心が折れそうになった。けれど、その度に、工場のシャッターを下ろした父の背中を思い出した。「次の世代の経営者には、同じ思いをさせたくない」。それが、彼女の出発点だった。あの日、シャッターと一緒に閉ざされたものを、彼女は別の場所で、別の人のために、開け続けている。 彼女のオフィスには、相談者が描いた小さな絵が飾られている。それは、ある女性社員から贈られたものだった。育児休業から復帰したものの、職場で居場所をなくし、ほとんど病気になりかけていた女性。朋美は彼女の話を二時間聴き、会社と粘り強く交渉した。半年後、彼女は短時間勤務制度を活用しながら、無事に職場復帰を果たした。「先生のおかげで、家族と仕事の両方を諦めなくて済みました」。その絵には、青空の下で家族が手をつなぐ姿が描かれていた。朋美は、それを見るたびに、初心を取り戻す。社労士の仕事は地味で、ニュースにもならない。でも、ひとつの絵の中に、確かに誰かの人生が救われた証が、残っている。 夜、彼女は最新の法改正を学ぶために、机に向かう。社会保険労務士の仕事は、時代とともに変わり続ける。働き方改革、ハラスメント防止、テレワーク、フリーランス保護――新しい制度が登場するたび、現場で混乱が生まれる。朋美はその橋渡しをする役目を担う。難解な条文を、社長にも社員にも分かる言葉に翻訳し、現場で使える形にまで落とし込む。「制度を作るだけじゃダメ。使われて、はじめて誰かを救える」。その視点こそ、彼女が最も大切にしているものだった。深夜のデスクライトの下で、彼女は細かい字を追いかける。誰かの『働きやすい明日』が、その一行の解釈にかかっていることを、彼女は知っているから。 ある日、朋美のもとに古い相談者から電話があった。十年前、倒産寸前の状態で出会った会社が、いまや百人を超える企業に成長していた。「あの時、先生に出会ってなかったら、今の私たちはありません」――社長の声は震えていた。朋美は受話器を握りしめ、目を閉じた。脳裏に浮かんだのは、両親の倒産した工場の薄暗い光景。その記憶を超えて、いま、目の前に灯っているものがある。それは、人を守った先に生まれる、確かな未来の灯りだった。電話を切ったあと、彼女はしばらく窓の外を見ていた。社労士の十年は、決して華やかな道のりではなかった。けれど、こんな夜のために、自分は歩いてきたのだと、静かに思った。 オール社会保険労務士事務所の名前には、『すべての働く人を、社長も社員も、すべての場面で支える』という意味が込められている。朋美はパソコンを閉じ、椅子の背にもたれた。窓の外、夜空に星が瞬いていた。明日もまた、誰かの相談が、彼女のドアを叩くだろう。それを思うと、不思議と、疲れより先に、嬉しさが込み上げてくる。「人を守ることが、会社を守ること。会社を守ることが、街を守ること」。その小さな循環の真ん中で、彼女は今日も、誰かの話に耳を澄ませている。社労士・須田朋美。その名前は、決して大きな看板になることはないかもしれない。けれど、誰かの暮らしの真ん中で、確かに灯り続けている。