鎌倉、小町通りから一本奥に入った石畳の路地。創業百四十年の和菓子屋『甘香堂』の暖簾を、清水小綾はそっとくぐった。店の奥に通された応接間には、八十二歳の女将・里子と、東京から戻ってきたばかりの孫・誠が並んで座っている。「先生、ついに、決めたんです」――里子の声は、低いが、確かだった。代替わり。事業承継。それは、彼女の家業がこの店で迎える、四度目の世代交代だった。「孫の誠が、継ぎたいって言うてくれたんです」。里子の手は、和紙のように皺が深く、それでも、その手で握る湯呑みは、決して震えなかった。 甘香堂の歴史は、明治の中頃から続いている。鎌倉の海風と、由比ヶ浜の塩、地元の白小豆、吉野の和三盆。素材と手間を惜しまない姿勢が、四代にわたって守られてきた。だが、誠の父は東京で別の仕事に就き、家業を継がない選択をした。長く、後継者問題は店の影に潜んでいた。そこへ、孫の誠が「継ぎたい」と言い出したのだ。三十歳になる手前、ITベンチャーで働いていた誠は、ある日、祖母が一人で店を守る背中を見て、決意した。「百四十年を、僕の代で終わらせたくない」と。 小綾は、ホワイトボードに『事業承継税制』の図を描き始めた。特例措置を使えば、自社株式の贈与税・相続税が、一定の条件のもとで猶予される。「ただし、五年間は雇用維持、そのあとも要件があります。だから、家族会議が大切なんです」。里子は黙って頷き、誠は熱心にメモを取った。傍らに座っていた誠の父――里子の息子――が、ようやく口を開いた。「私は継がなかった。だから、誠が継ぐ道を、邪魔したくない。けど、無理もさせたくない」。その言葉に、部屋の空気が、少しだけ柔らかくなった。 小綾は、決算書を眺めながら、店の数字に込められた物語を読み解いていく。仕入れの和三盆の単価、売上のピークである二月と十一月、観光客と地元客の比率――。「老舗の数字には、季節と土地と人情が、刻まれているんです」と彼女は言った。誠は、IT企業で培ったスキルを使って、過去十年の売上データを再分析していた。新しい目線が、古い数字に光を当てる。「祖母の時代の良さを残しながら、僕にしかできない発信を加えたい」――そう語る誠の目は、PCの画面ではなく、店先の暖簾を見ていた。 誠が見せた商品開発のアイデアは、和菓子のサブスクリプションサービスだった。月替わりで、季節の上生菓子を、全国に届ける。クラウドで顧客管理し、SNSで物語を発信する。里子は、最初は戸惑った。「うちは、店で買ってもらってナンボ」――彼女の世代には、なじみの薄い形だ。しかし、誠が「祖母の作る和菓子を、祖母を知らない人にも届けたい」と言った時、彼女は静かに微笑んだ。「うちのお菓子が、誰かの楽しみになるなら、それは商売の本懐や」。小綾は、その会話を聞きながら、税理士という仕事の喜びを噛みしめていた。 事業承継の手続きは、決して簡単ではない。株式の評価、贈与契約書、税務署への届出、毎年の継続報告。小綾は、その一つひとつを、家族のペースに合わせて進めていく。「焦らず、でも、止まらず」。それが、彼女のやり方だった。ある日、里子が小綾にぽつりと漏らした。「先生、私はね、お菓子を作ってきただけのお婆さんやけど、こうやって続いていくのを見られるのは、ほんとうに、ええもんやと思いますわ」。その言葉は、決算書のどんな数字よりも、ずっと深く、彼女の胸に残った。 申告書類が完成した夜、家族は店の前に集まり、暖簾の下で写真を撮った。里子、誠、誠の父――三世代が並ぶ姿は、小綾のスマートフォンの画面に、永遠の一枚として収まった。「これで、ひと段落です」と小綾は言った。だが、彼女の中では、本当の仕事はここから始まることを知っていた。承継後の伴走、新規事業の数字、税制改正への対応――和菓子屋の四代目とともに、彼女もまた、新しい歩みを始める。鎌倉の路地に、月が高く昇っていた。誰かが店の灯りを消す前に、誠が暖簾を撫でた。「明日からも、よろしくな」と、そっとつぶやいて。 半年後、甘香堂の店先には、新作の上生菓子『海風』が並んでいた。由比ヶ浜の砂浜をイメージした、淡い水色と、白いあられの粒。誠が考案し、里子が手で仕上げた一品だ。SNSで話題になり、サブスクの申し込みが、開始一週間で予定数を超えた。けれど、店の暖簾は、変わらない。古い木の看板も、湯気の立つお茶も、里子の優しい笑顔も。新しいことを始めるとは、すべてを変えることじゃない。残すべきものを、はっきりと見極めることだ――小綾は、店を訪れるたびに、その真実を、再確認するのだった。鎌倉の春は、まだ続いている。