二〇二三年十一月十九日、長崎の朝は、空が高く澄んでいた。山下大貴は、車のハンドルを握りながら、長崎商業高校の校舎を目指していた。今日は、出前授業の日。生徒たちに、生成AIと起業について、九十分の話をする予定だ。Garoopを設立して、まだ七ヶ月足らず。プロダクトもまだ揃っていない。それでも、彼は『高校生に話したい』と、自分から学校に申し出ていた。「いま、生成AIを覚えて、それを自分の事業に変えていける高校生が、確実にいる。彼らに、いちばん早く伝えたい」――その想いが、ハンドルを握る手に、確かに、力を込めていた。長崎の路面電車のレールが、車窓の奥で、朝陽に光っていた。 教室には、商業科の二年生が四十人ほど座っていた。最初の十分間、生徒たちの表情は、戸惑いと、わずかな警戒で固まっていた。スーツを着ていない、若い起業家。聞いたことのない会社。長崎で起業? と、首を傾げる子もいた。山下は、その空気を、ゆっくりと変えていった。スライドではなく、ホワイトボードに、ガルちゃんの絵を、手で描いた。「シングルマザーの、カンガルーです。子どもの養育費を稼ぐために、生成AIを学んでいます」。教室に、ぱらぱらと、笑い声が起きた。緊張が、少しずつ、ほどけていく。授業は、ようやく、本当の意味で、はじまった。 「生成AIが出てきて、君たちは、十歳の頃から起業できる時代に、いる」。山下は、黒板の前に立って、そう言った。教室の何人かが、目を丸くした。「冗談じゃないんです。本気で言っています」。彼は、プロジェクターを使わず、自分の言葉だけで、生徒たちに語った。AIは、言葉の壁を超え、知識の壁を超え、世代の壁を超える。十六歳の高校生でも、自分のスキルと、ChatGPT と、SNS があれば、世界の誰かにサービスを届けられる。それは、彼自身が、長崎で実証している事実だった。「世の中の常識を、君たちは、書き換えていい」。 途中、ガルちゃんの設定を、丁寧に紹介した。「彼女は、子どもを背中にくっつけて、生成AIで、絵を描いたり、文章を書いたりして、生計を立てています。Garoopは、彼女みたいな、現実の生活の重みを背負った人たちにも、チャンスを届けたい」。生徒の中に、母親が一人で家計を支えている家庭の子もいた。その子の表情が、わずかに変わった。話を聞きながら、ノートに何かを書き始めた女子生徒。まっすぐ正面を見つめて、聞き入る男子生徒。授業は、ただの『お話』ではなく、それぞれの生徒の、それぞれの現実に、静かに、届きはじめていた。 質問タイムに入ると、最初に手を挙げたのは、後ろの席の女子生徒・優奈だった。彼女は、はっきりとした声で、こう問うた。「失敗したら、どうなりますか?」――その問いに、教室の空気が、一瞬、静かになった。山下は、笑った。本心からの、優しい笑顔だった。「失敗は、筋肉痛みたいなものです。痛いけど、その痛みが、ある日、強さに変わる。失敗しないで進む人より、失敗を抱えながら進む人のほうが、僕は、信用できる」。優奈は、メモを取った。彼女の目は、もう、戸惑いではなく、ずっと先を見ていた。教室の他の生徒たちも、それぞれに、何かを、自分の中で、書き留めていた。 授業の終わり際、山下は、生徒たちに、こう言った。「君たちは、もう、起業家のスタートラインに立っている。今日、家に帰ったら、ChatGPT を開いてみてください。何でも、聞いてみてください。返ってきた答えに、なんで? と、もう一回、聞いてみてください。それが、君たちの最初の事業の、種です」。九十分は、あっという間だった。生徒たちは、拍手で、彼を送り出した。校長先生が、「いい授業を、ありがとうございました」と、深く頭を下げた。山下は、車に戻る前に、振り返って、校舎をもう一度、見上げた。十一月の空が、相変わらず、高く澄んでいた。 帰り道、車の中で、山下は、ハンドルを握りながら、考えていた。「俺が、十六歳の頃に、誰かに、こう言われていたら、人生は、どう変わっていただろう」――。長崎の坂を、ゆっくりと上っていく車のラジオから、地元のニュースが、流れていた。彼は、ふと、自分自身に、こう言い聞かせた。「俺がやっているのは、未来の起業家を育てる、なんて、上から目線の話じゃない。十六歳の俺自身が、欲しかったものを、いま、子どもたちに渡しているだけだ」。出島の社務所が見えてきた頃、彼の中で、新しい事業のアイデアが、ひとつ、芽を出していた。鍛校の構想は、この日、少しだけ、形になりはじめていた。 翌年の春、Garoop の問い合わせフォームに、長文のメッセージが届いた。差出人は、長崎商業高校の優奈だった。「先生、覚えてますか? あの授業のあと、私、ChatGPT を毎日使うようになりました。地元の小さなパン屋さんのSNS発信を、無料で手伝うようになって、最近、お金をもらえるようになりました。私、卒業したら、自分で会社を作りたいんです」――山下は、画面の前で、しばらく動けなかった。出前授業は、九十分の話だ。けれど、その九十分が、誰かの十年後を変える可能性が、確かに、ある。彼は、すぐに返事を書いた。「優奈さん、相談、いつでも、乗ります。長崎で、待っています」。