東京の港区、ガラス張りのオフィスビルの十八階。須田朋美は、エレベーターを降りて、急成長中のスタートアップ『LinerX』の受付に立った。創業四年目、社員数は二年前の五十人から、今では百五十人を超える。彼女が呼ばれたのは、人事責任者の変更と、労務体制の総点検のためだった。応接室で出迎えてくれたのは、CEOの三十代の男性。表情には、勢いと、わずかな焦りが見えた。「先生、率直に言います。うちは、走るのが早すぎて、足元の整備が、追いついていません」。朋美は、頷いた。「だから、今のうちに、立ち止まる時間を作るんです」。 問題の核心は、就業規則の不在だった。創業時に簡易版を作っただけで、その後の組織変化に、対応できていない。「先生、社員から、いろんな働き方の相談が来るんですが、判断の基準が、その都度、変わってしまって」――人事担当者の声には、疲労が滲んでいた。朋美は、まず、現状の把握から始めた。雇用契約書、賃金規程、退職金、休暇制度、リモートワークの扱い。一つひとつを、現場の運用と照らし合わせて、ズレがどこにあるかを、洗い出していった。「百五十人の組織は、五十人の延長線では、もう、運営できません」。 ストックオプションと労働契約の関係も、繊細な問題だった。スタートアップでは、ストックオプションが、給与の補完として位置付けられる。だが、その付与条件、行使時期、退職時の扱い――これらが、労働契約と整合していないケースが多い。「先生、うちのSO、たぶん、整理できてないです」とCEOは率直に認めた。朋美は、弁護士と連携しながら、規程を整備していった。「制度は、社員の信頼の土台です。SOが、退職時にトラブルの種になることが、業界では、とても多いんです」。CEOの目に、危機感が宿った。 リモートワーク規程も、ゼロから作り直す必要があった。LinerXでは、社員の四割が完全リモート、三割がハイブリッド、残りが出社中心。働く場所も、東京以外に、福岡、長野、海外も含む。「先生、こんなに多様な働き方を、一つの規程で、どう書けばいいんですか」――人事担当者の問いに、朋美はこう答えた。「『どう働くか』ではなく、『何を達成するか』を中心にしましょう。場所と時間の自由を許容する代わりに、成果と責任の明確化を、規程の中心に据えるんです」。それは、いまの時代の労務の、新しい考え方だった。 社員の雇用形態も、多岐にわたっていた。正社員、契約社員、業務委託、副業者、海外在住の協力者。それぞれに、適切な契約と、適切な税務、適切な労働法の適用がある。朋美は、人事チームと一緒に、雇用形態のマトリックスを作成した。「線引きを曖昧にすると、誰かが、不利益を被ります。線引きを明確にすると、それぞれが、安心して働けます」。CEOは、最初は『そんなに細かくしなくても』と渋っていた。だが、朋美が示した、過去の判例や、業界の事例を見て、最終的には、深く頷いた。「先生、覚悟が、決まりました」。 経営陣との戦略ミーティングは、月二回、欠かさず行われた。財務、開発、営業、それぞれの部門長と、人事部、そして朋美。「LinerXの、三年後の組織像を、まず、定義しましょう」――朋美の提案に、最初は戸惑いがあった。だが、彼女は譲らなかった。「未来像がないと、現在の制度設計は、必ず、後手に回ります」。半日の議論の末、CEOが、こう言った。「三年後、社員三百人。海外拠点が三つ。そして、社員一人ひとりが、自分のキャリアを設計できる会社」。朋美は、その言葉を、規程設計の北極星にした。 新規制を社員に説明するワークショップは、五日間にわたって開催された。朋美は、自分で講師を務めた。法律の用語を、社員の言葉に翻訳する。質問には、その場で答える。分からないことは、後日、文書で回答する。「制度は、押し付けるものじゃない。一緒に作るものです」――その姿勢が、社員に伝わった。ワークショップの最後の日、若手のエンジニアが、朋美に質問した。「先生、僕、こんなに、自分の働き方を、真剣に考えたの、初めてです。これから、変わります」。朋美は、その言葉を、ずっと、忘れないだろう。 半年後、LinerXの組織は、目に見えて、安定していた。離職率は半減し、新規採用の応募数は倍増した。CEOは、朋美に、こう言った。「先生、僕は、会社が大きくなる、ってことを、誤解してました。人数が増えることじゃない。社員一人ひとりが、安心して、力を発揮できる土台を作ること。それが、本当の『大きくなる』ってことだったんですね」。朋美は、静かに、頷いた。「あとは、御社の文化の力です。私の仕事は、その土台作りまで」。窓の外、東京の夜景が、無数の灯りで、光っていた。その一つひとつに、誰かの仕事と、誰かの暮らしが、確かに、息づいていた。