長崎の老舗料亭『青柳』の朝は、静かに始まる。仕入れた鯛を、女将の英子が、丁寧に下処理していく。出汁の昆布が、湯気の中で、ゆっくりと、旨味を解き放つ。今日のお客様は、東京から来る商社の重役の一行。卓袱料理のフルコースを、八名で楽しまれる予定だ。「お料理は、季節と、お客様と、対話しながら、作るんよ」。英子が、若い板前に、優しく声をかける。長崎の卓袱料理は、ただの郷土料理ではない。中華と、和と、洋――三つの文化が、ひとつの卓を囲んで、対話する、料理の哲学そのものだった。 卓袱料理の特徴は、丸い卓に、料理が並べられ、参加者全員で取り分ける、その『分け合う』形にある。江戸時代、鎖国下で、長崎は、オランダ人と中国人と日本人が、共に暮らす街だった。それぞれが、それぞれの食文化を持ち寄り、互いに、興味津々に、味わい合った。その自然な営みから、卓袱料理は、生まれた。「お鰭(おひれ)」と呼ばれる、お吸い物から始まる正式な作法は、その名残だ。「主人が、お客様に、最初に振る舞うのが、お鰭。これがないと、卓袱料理は、始まらん」と英子は言う。 ハタオシ――卓袱料理の伝統を担う、特別な役割。それは、料理を運び、卓を整え、お客様の進行を、見守る人のことだ。英子は、五十年、この役割を続けてきた。「お客様が、何を欲しがってはるか、料理の前に、目で読むんです」。彼女の動きは、無駄がなく、しかし、温かい。料理の説明はせず、ただ、必要な時に、必要な料理を、卓の中央に、そっと置く。「説明しすぎると、お客様の対話が、止まってしまう。料理は、空気を作るもんで、主役じゃない」。それは、五十年の経験が、辿り着いた、料理人の哲学だった。 英子の半生は、卓袱料理の歴史と、重なっていた。十六歳で、青柳に、女中として入った。両親は、長崎の漁師で、貧しかった。「料理が好きで、入ったわけじゃない。働き口が、ここしかなかったんよ」。それでも、彼女は、毎日、卓袱料理の現場で、学んだ。先代の女将から、お辞儀の角度から、お皿の置き方から、お客様への目の配り方まで、徹底的に、教え込まれた。三十歳で、結婚を機に、店を継いだ。「気がついたら、五十年、たってましたわ」。彼女の手は、皺だらけだが、その動きは、若い板前よりも、ずっと、繊細だった。 江戸時代の長崎人の食生活は、いまの日本人が思うよりも、ずっと、国際的だった。卓袱料理だけでなく、家庭でも、中華の調味料、ポルトガルのお菓子、オランダの保存食が、当たり前のように、食卓に並んでいた。長崎は、四百年前から、すでに『多文化共生』を、食を通じて、実践していた街だった。「うちの祖母も、その祖母も、たぶん、家でカステラを焼いていた」。英子は、そう言って、小さく笑った。彼女の家には、明治時代の卓袱料理の献立表が、家宝として、残っている。それを見ると、当時の食材の豊かさに、驚かされる。 現代の卓袱料理は、伝統を守りつつ、進化している。海外からの観光客に向けて、多言語のメニューを用意する店が増えた。英子の店でも、若い板前たちが、オリジナルの一品料理を、卓袱の流れの中に、組み込み始めた。「伝統は、止めることじゃなくて、続けることや」と英子は言う。「続けるためには、変えていい部分と、変えたらアカン部分を、見極めなアカン。それを見極めるのが、女将の仕事や」。新しい料理を取り入れた日、彼女は必ず、まず、自分の口で、味を確かめる。それは、五十年、変わらない、彼女の流儀だった。 ある夜、東京から来た商社のお客様たちは、卓袱料理を、心から楽しんで、店を後にした。「英子さん、あなたのお店は、長崎の宝物ですね」――その言葉に、英子は、深く頭を下げた。料理を通じた、異文化との対話。それは、四百年前の出島から、変わらず、長崎が、世界に提供してきた、最大のおもてなしだった。「お料理は、政治や経済より、ずっと、人の心を、近づけます」。英子は、そう信じている。卓袱の卓は、丸い。誰にも上座も、下座もない。皆で、同じ料理を、同じ卓で、味わう。それは、長崎が、世界に、提案し続けている、ひとつの『生き方』でもあった。 夜遅く、英子は、店の看板の灯りを、ゆっくりと消した。今日も、ひとつの卓袱料理が、無事に、終わった。「明日は、何を、お出ししようかしら」――彼女は、坂を下りながら、明日のメニューを、頭の中で、組み立て始める。長崎の坂の街は、相変わらず、静かに眠っている。けれど、明日の朝には、また、出汁の香りが、青柳の店から、立ち上るだろう。卓袱料理は、長崎が、世界と対話し続けるための、ひとつの言語だ。英子は、その言語の、生きた話者だった。海風が、彼女の背中を、優しく押していく。長崎の物語は、料理の湯気と共に、これからも、続いていく。